さみしいの気持ち。


「さみしい(さびしい)。」

の気持ちは、

人が、

社会的な動物として

本能的に抱いてしまう

感情だと思う。


でも、

さみしいの気持ちは、

ひとりで持ってると

人を醜くする気がする。


だってさみしいと、

欲しくなる。


友達が。

親友が。

恋人が。

家族が。

誰かが、ほしい。


お菓子が。

お洋服が。

本が。

お金が。

何かが、ほしい。


さみしいと、欲しくなる。

それは、

生物として生きていくために

必要なものかと言われれば

そんなことないんだけど、

人だから、

さみしいから、

必要なんだ。


でもそれでもさみしいと、

人はついに、

さみしいを、

忘れる。


たとえば。

さみしいのに、

さみしいって言えなくなると

それは溜まって溜まって、

それ以上耐えられないくらい

さみしくなって、

辛くて、

私たちはさみしさを忘れようとする。

防衛機能だ。

それで、

ひとりで生きていける気がして、

そのうち、

ほんとにひとりで生きている気がして

さみしさを見下すようになる。

「ひとりで生きていけない奴なんて。」

でもここで、

ほしいの気持ちだけが

残ったりもする。

そうすると、

虚しい消費が始まる。


でもそれって

さみしい解決策だと私は思う。

きっとどこかでずっと、

さみしいの気持ちが泣きながら

待ってるもん。


「誰か、抱きしめて。」



だけど

私は

さみしいの気持ちは

誰かにそっと伝えたとき、

人を美しくすると思う。


だって、

人は人を抱きしめられるから。

しかも、

誰かのさみしいに触れたとき、

なんとかしてあげたいと

思ってあげられる。

それが、

人だ。

他人の気持ちを分かち合える。

愛を生み出せる。

それが、

人だと信じたい。


さみしいを見下す人は

さみしいに支配されてて

さみしいの意味を忘れてしまう。

でもさみしいは、ほんとうは、

HELPのサイン。

心が、

「いま、HELPって言うときだよ!」

って教えてくれて、

でもなかなか気づかないと

強く伝えようとしてくれて、

それを「辛い」と

私たちは感じてるのかも。


だから、言えたらいいよね。

さみしいよって。


でもね、言えないんだよね。

抱きしめてって。


そういう話。